今日のプレイリスト#15「KID ORY(キッド”・オリー)」

今日のプレイリスト#15「KID ORY(キッド”・オリー)」

今日のプレイリスト。15回目の今回は「KID ORY」です。


下北沢で行きつけにしているレコード屋さん「フラッシュ・ディスク・ランチ」で購入しました。


このお店は、私が世田谷に住み始めて間もないころからずっと通っているレコード屋で、お店がある限り有効なポイントカードは、50スタンプ貯まると15,000円以下のレコードを何枚買っても半額というやばいシステムが人気のお店です。


エドワード・“キッド”・オリー(英語: Edward "Kid" Ory、1886年12月25日 - 1973年1月23日)は、ジャズのトロンボーン奏者であり、バンドリーダーでした。彼はルイジアナ州ラプラース(LaPlace)近くのウッドランド・プランテーションに生まれました。


オリーは幼少期から自作の楽器で音楽の演奏を始め、ティーンエイジャーになる頃にはルイジアナ州サウスイーストでちゃんとしたバンドを率いていました。彼は家庭の事情から、21歳の誕生日までラプレイスに拠点を置いていましたが、21歳の誕生日を迎えると自身のバンドをルイジアナ州ニューオーリンズに移しました。


オリーは1910年代にニューオーリンズで特に有名なバンドを持ち、多くのニューオーリンズの偉大なジャズ・ミュージシャンたちを雇っていました。その中にはジョー・“キング”・オリヴァー(Joe "King" Oliver)、マット・キャリー(Mutt Carey)、ルイ・アームストロング、そしてクラリネット奏者のジョニー・ドッズとジミー・ヌーンらが含まれていました。


1919年にロサンゼルスに移り、多くのニューオーリンズのミュージシャンたちがそうしたように、1922年にはそこで自身のバンドと録音を行いました。そのバンドにはマット・キャリー、クラリネット奏者でピアニストのディンク・ジョンソン(Dink Johnson)、そしてコントラバス奏者のエド・ガーランド(Ed Garland)らがいました。ガーランドとキャリーは長年の仲間であり、オリーが1940年代に復帰するまでの間も、彼と演奏する意志を持ち続けました。1925年にオリーはシカゴへ引っ越しました。そこでは非常に活発に活動し、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、ジョニー・ドッズ、そして他の多くの人々と共演し、録音を行いました。

 

世界恐慌の間、オリーは1933年に音楽から引退し、1943年まで再び演奏しませんでした。1944年から約1961年まで、彼はその時期とりわけ頂点を極めるニューオーリンズ・スタイルのバンドのひとつを率いました。マット・キャリー、エド・ガーランド、トランペット奏者のアルビン・アルコーン(Alvin Alcorn)とテディ・バックナー(Teddy Buckner)もその一員であり、クラリネット奏者のダーネル・ハワード(Darnell Howard)、ジミー・ヌーン、アルバート・ニコラス(Albert Nicholas)、バーニー・ビガード、ジョージ・プロバート(George Probert)、そしてピアニストのバスター・ウィルソン(Buster Wilson)、セドリッウ・ヘイウッド(Cedric Haywood)、ドン・イーウェル(Don Ewell)、そしてドラマーのマイナー・ホール(Minor Hall)らが、この時期、オリーの楽団員として演奏していました。


オリーのバンドはニューオーリンズ・ジャズへの関心を再び高め、録音のみならず人気ラジオ番組(その中にはオーソン・ウェルズの『オールマナック』(Almanac)の放送やスタンダード・オイル提供のジャズの歴史シリーズも含まれていました)の制作にも影響を与えました。


オリーは「マスクラット・ランブル」、「オリーズ・クレオール・トロンボーン」、「サヴォイ・ブルース」の作曲者でもありました。1966年に音楽から引退し、晩年はハワイ州で過ごし、ホノルルでお亡くなりになりました。



WAITER-Uではキャンプのみならず、音楽、本、映画もセレクトしています。

Spotifyでプレイリストも作ってますので、よかったらキャンプに行く車の中ででも聴いてみてください。





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