今日のプレイリスト#21「DANCE CONTEMPORARY SPECIAL」

今日のプレイリスト#21「DANCE CONTEMPORARY SPECIAL」

今日のプレイリスト。21回目の今回は「DANCE CONTEMPORARY SPECIAL」です。



1980年代に日本のレーベルから発売されたコンピレーションレコードです。

下北沢で行きつけにしているレコード屋さん「フラッシュ・ディスク・ランチ」で購入しました。



このお店は、私が世田谷に住み始めて間もないころからずっと通っているレコード屋で、お店がある限り有効なポイントカードは、50スタンプ貯まると15,000円以下のレコードを何枚買っても半額というやばいシステムが人気のお店です。


A面もB面もとても良いバイブスの楽曲ばかりなのですが、その中から5人のアーティストをご紹介します。


Men at Work

オーストラリアが生んだ伝説のロックバンド、メン・アット・ワークの興隆と変遷

オーストラリアのメルボルンが生んだメン・アット・ワークは、1979年にコリン・ヘイとロン・ストライカートのアコースティックデュオとして始まり、間もなくグレッグ・ハム、ジェリー・スペーサー、ジョン・リースが加わり、完全なバンド形態へと発展しました。彼らは1981年にデビューアルバム『Business as Usual』をリリースし、このアルバムからのヒットシングル「Who Can It Be Now?」と「Down Under」で、アメリカを含む世界中でトップチャートを席巻しました。

 

グラミー受賞とオージー・ロックの象徴

 

1983年、メン・アット・ワークはグラミー賞の最優秀新人賞を獲得し、その独創的なサウンドとオーストラリアン・ユーモアが評価されました。特に「Down Under」はオーストラリアの国民的アイデンティティを形成し、世界中でオージー・ロックの代名詞となるほどの影響を与えました。

 

日本での成功とその後の挑戦

 

日本では、『Business as Usual』がオリコン洋楽アルバムチャートで4週連続1位を獲得するなど、特に高い人気を誇りました。1983年の初来日公演は東京の中野サンプラザから始まり、渋谷公会堂で幕を閉じる成功を収めました。しかし、セカンドアルバム『Cargo』のリリース後、メンバーの脱退とバンド内の摩擦が生じ、1986年に活動を停止しました。

 

再結成と永遠の別れ

 

1996年にバンドは再結成され、2000年のシドニーオリンピック閉会式でのパフォーマンスは、再び彼らの音楽が心に響く瞬間を提供しました。しかし、バンドは2002年に再び解散し、2012年には重要メンバーであるグレッグ・ハムが58歳で亡くなるという悲劇がありました。

 

コリン・ヘイのソロとしての再浮上

 

コリン・ヘイはソロアーティストとしてのキャリアを続け、2019年には新たなバックバンドを迎えてツアーを再開しました。彼の音楽は今もなお、メン・アット・ワーク時代の魅力を色濃く残し、世界中のファンを引きつけています。

 

メン・アット・ワークは、その独特な音楽スタイルとオーストラリアン・スピリットで、ロックの歴史に独自のページを刻んだバンドです。彼らの音楽は、世代を超えて多くの人々に愛され続けています。

 

Heatwave

1975年、英国ロンドンにて結成されたヒートウェーブは、アメリカ、イギリス、スイス、チェコスロバキア、ジャマイカ出身のメンバーを擁する国際的なディスコ・ファンクバンドです。ジョニー・ワイルダー・ジュニアとキース・ワイルダー(ボーカル)、ロッド・テンパートン(キーボード)、ロイ・カーター(ギター)など、多彩な才能が集結しました。

 

ヒットシングルと音楽の進化

彼らは「Boogie Nights」、「The Groove Line」、「Always and Forever」といったシングルで知られています。特に「Boogie Nights」は1977年にイギリスで2位、アメリカでのチャートでも高い位置にランクインし、プラチナ認定を受けるなど、国際的な成功を収めました。

 

メンバーの変遷と困難の時代

1976年にGTOレコードと契約し、デビューアルバム『Too Hot to Handle』をリリース。その後、バンドはセカンドアルバム『Central Heating』をリリースしましたが、バンドはメンバーの交代が頻繁にあり、一部は悲劇的な出来事に見舞われました。特にベーシストのマリオ・マンテーゼは、パーティーの帰宅後に交際相手に刺され、重傷を負いました。彼は数ヶ月の昏睡状態から目覚めた後、視覚と発声の機能を失いましたが、加害者である彼のガールフレンドに対して告訴を行わず、共に生活を送ることを選びました。

 

ロッド・テンパートンの功績

バンドの一員であるロッド・テンパートンは、ヒートウェーブを離れた後も、マイケル・ジャクソンの「Off the Wall」と「Thriller」のタイトルトラックを含む数々のヒット曲を手がけるなど、一流のソングライターとして活躍しました。

 

後年の活動とメンバーの死

ヒートウェーブは1980年代を通じて活動を続け、多くのアルバムをリリースしましたが、1980年代後半からは商業的な成功からは遠ざかっていました。創設者の一人、ジョニー・ワイルダー・ジュニアは2006年に亡くなり、ロッド・テンパートンも2016年に病気でこの世を去りました。そして、ドラマーのアーネスト・"ビルボ"・バーガーは2024年に亡くなり、オリジナルメンバーが全員この世を去ることになりました。

 

ヒートウェーブはその音楽性と多様性で70年代から80年代にかけて多大な影響を与え、ディスコ、ファンク、ソウルミュージックの歴史にその名を刻んでいます。

Loverboy

1979年、カナダのアルバータ州カルガリーで結成されたLoverboyは、アリーナロックの定番として知られるヒット曲「Turn Me Loose」や「Working for the Weekend」を生み出し、カナダやアメリカのクラシックロックラジオ局で今もなお頻繁に流れています。

 

初期の苦労とブレイクスルー

Loverboyは、数多くのアメリカのレコードレーベルから拒絶された後、1980年3月20日にカナダのコロンビア/CBSレコードと契約し、デビューアルバムの録音を開始しました。バンドの創設メンバーには、リードシンガーのマイク・レノ(元Moxyのマイク・リノスキ)、ギタリストのポール・ディーン(元Scrubbaloe CaineおよびStreetheart)、キーボーディストのダグ・ジョンソン、ベーシストのジム・クレンチ(初ギグ後にスコット・スミスに交代)、ドラマーのマット・フレネットが含まれます。

 

1980年代の成功

1980年代を通じて、Loverboyはカナダとアメリカで数多くのヒット曲を生み出し、4枚のマルチプラチナアルバムを獲得し、何百万枚ものレコードを売り上げました。1988年から1991年までの短期間を除いて、バンドは定期的にライブ公演を続けており、現在はバンダーに拠点を置いています。

 

バンド名の由来

バンド名はポール・ディーンの夢にちなんで名付けられました。ある夜、バンドメンバーと彼らのガールフレンドと映画を見に行く前に、ファッション雑誌を眺めていたところ、「Cover Girl」の広告が「Cover Boy」へと変わり、最終的にディーンの夢の中で「Loverboy」になりました。

 

持続する影響

Loverboyはその後も活動を続け、新しいアルバムをリリースし、ツアーを行い、新旧のファンを魅了しています。2022年には新曲「Release」をリリースし、REOスピードワゴンやスティクスとのツアーを行いました。彼らの音楽は、時間が経っても変わらぬ魅力でリスナーを引きつけ続けています。

 

Loverboyの音楽は、1980年代のカナダとアメリカのロックシーンを象徴するものであり、彼らの楽曲は今後も長く愛され続けるでしょう。

 

KC & The Sunshine Band

フロリダ州ハイアリア出身、1973年結成のKC and the Sunshine Bandの華麗な軌跡

1973年、アメリカ・フロリダ州ハイアリアで結成されたKC and the Sunshine Bandは、ディスコとファンクのジャンルで世界を魅了し続けています。彼らの代表曲には、「Get Down Tonight」、「That's the Way (I Like It)」、「(Shake, Shake, Shake) Shake Your Booty」など、数々のヒット曲があります。これらの曲は1970年代にビルボードホット100で5曲がナンバーワンを記録し、ディスコ音楽のアイコンとなりました。

 

バンドの起源と初期の成功

バンドは、レコード店で働きながらTK Recordsでアルバイトをしていたハリー・ウェイン・ケイシー(KC)と、TKでレコードエンジニアを務めていたリチャード・フィンチによって創設されました。初期のヒットにより、彼らは1974年にジョージ・マクレーが歌う「Rock Your Baby」をプロデュースし、これが全世界でナンバーワンヒットとなります。

 

ディスコブームとその影響

1975年にはセルフタイトルアルバム『KC and the Sunshine Band』をリリースし、これが大ヒット。特に「Get Down Tonight」や「That's the Way (I Like It)」はアメリカ国内外で絶大な人気を博し、ディスコフィーバーを加速させました。1976年にはグラミー賞に4回ノミネートされ、1回受賞するなど、その音楽性が高く評価されました。

 

スタイルの変遷とチャレンジ

1980年代に入ると、ディスコの人気が衰え、バンドは音楽スタイルの変更を余儀なくされました。KCはテリ・デサリオとのデュエット「Yes, I'm Ready」で成人向けコンテンポラリー市場で成功を収め、新たな音楽の方向性を模索しました。

 

復活と現在

1990年代にディスコミュージックへの関心が再燃し、KCはバンドを再結成。新旧のメンバーと共に活動を再開し、新曲やコンピレーションアルバムをリリースしています。2000年代に入ると、彼らは映画音楽にも参加し、2013年にはパームスプリングスのウォークオブスターズにその名を刻みました。

 

KC and the Sunshine Bandは、ディスコとファンク音楽の大いなる遺産を築き上げ、今もなお多くのファンに愛され続けているバンドです。彼らの音楽は時代を超えて、世代を問わず多くの人々に楽しまれています。



Geroge Duke

ジョージ・デューク:ジャズとポップの架け橋を築いた音楽家

 

1946年1月12日、カリフォルニア州サンラファエルで生まれたジョージ・M. デュークは、数多くのアーティストと共にアレンジャー、音楽監督、作曲家、レコードプロデューサーとして活動し、音楽の教授としてもその知識を共有しました。彼は、特にフランク・ザッパとの共演で知られていますが、自身のソロアルバムでも高い評価を受けています。その中でも1979年にリリースされた「A Brazilian Love Affair」は最も人気のある作品の一つです。

 

音楽への情熱の火付け役

 

デュークが音楽に情熱を注ぐようになったのは、4歳の時に母親に連れられてデューク・エリントンのコンサートを見たことからです。「ピアノを手に入れて!」と叫んでいたというエピソードは、彼の音楽キャリアの始まりを象徴しています。その後、彼は地元のバプティスト教会で正式にピアノを学び始め、サンフランシスコ音楽院で作曲とトロンボーンを専攻し、サンフランシスコ州立大学で作曲の修士号を取得しました。

 

ジャズからの転向とキャリアの飛躍

 

当初はクラシック音楽を演奏していたデュークでしたが、ジャズに転向。これは彼の従兄弟チャールズ・バレルによる影響が大きかったと言われています。ジャズを通じて「自由」を感じたデュークは、その後、ジャン・リュック・ポンティとのアルバムを皮切りに、フランク・ザッパやキャノンボール・アダレイのバンドに参加するなど、その才能を広げていきました。

 

プロデューサーとしての成功

 

1980年代には音楽プロデューサーとしてのキャリアにも力を入れ、ア・テイスト・オブ・ハニー、ジェフリー・オズボーン、デニース・ウィリアムスなど、多くのアーティストのヒット曲を手がけました。また、アニタ・ベイカーやスモーキー・ロビンソンといった大物アーティストの作品にも関わり、音楽業界に多大な影響を与えました。

 

ジョージ・デュークは2013年8月5日、慢性リンパ性白血病のため67歳で亡くなりました。彼の音楽はジャズ、ファンク、ソウル、ポップなど、幅広いジャンルにわたり、今日に至るまで多くの音楽ファンに愛され続けています。彼の音楽的遺産は、彼が残した数々のレコーディングと共に色褪せることなく、後世に受け継がれていくことでしょう。



WAITER-Uではキャンプのみならず、音楽、本、映画もセレクトしています。

Spotifyでプレイリストも作ってますので、よかったらキャンプに行く車の中ででも聴いてみてください。

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